- 話を聞いてもらい願望がある
- 前提知識が違うので話を聞いてもその場で理解することは難しい
- 話をしていて前提知識を同期させるタイミングが多くなると面倒臭くなる
- これは相手にとっては失礼なこと
- 説明することを楽しんだらいい
- 聞く側に負担をかける話はタイミングを選ぶべし
話を聞いてもらい願望がある
一緒に食事をする時など、二人で向かい合って座っているときに話をしたくなる。
それは本当に聞いてもらいたいことがあったり、沈黙が気まずいからだったりと理由は様々である。
筆者は「結論のない話」や「自分に関係ない話」をするのがあまり好きではない。
なのでこういう話はほとんどしない。
話す内容は大抵が「結論に向かって進む話」である。
前提知識が違うので話を聞いてもその場で理解することは難しい
自分が聞いてもらいたい話は「結論のある話」である。
この手の話では、その結論に至るまでには複数の根拠や状況を説明することになる。
自分が説明したいのは結論なので、その過程の話はすんなり理解してくれると嬉しいが、それはなかなか難しい。
なぜなら、相手と自分は前提知識がまるで違うからである。
なので、その根拠がなぜそうなのか、それはいったいどういう状況なのか、ということから説明しなければならない。
これらのなぜ?に答えていくと、またそれが結論になる話を展開しなければならない。
そうなると芋づる式にいろんなことを説明しなければならなくなる。
こうなってはいつまで経っても当初説明したかった結論を話すことはできない。
話をしていて前提知識を同期させるタイミングが多くなると面倒臭くなる
前提知識の差から、新たに説明しなければならない事柄が出てくると、話の腰を折られた気分になり、面倒臭くなる。
話をしていると前提知識の差分の量がすぐにわかるので、それを埋める工数もなんとなく把握できてしまい、そこに面倒くささを感じてしまうんだろう。
これは相手にとっては失礼なこと
相手は自分の話を聞くために存在しているのではない。
勝手に話を始めて、話を理解できずに勝手に面倒くさがられては困る。そういうやつが目の前にいるのは非常に面倒くさい。
前提知識に差があるのは当たり前だし、それでいい。
勝手に話を始めたやつが勝手に面倒臭がるなど、相手にとって非常に失礼なことだと思う。
説明することを楽しんだらいい
説明しなければならない知識があったということは、「相手がそれを知らなかった」または「知っていたが理解の仕方が自分とは違っていた」ということだ。
それは相手のことを知るきっかけになるのではないだろうか。
相手が知らなかったことを説明していく、理解の仕方が違ったものについて話し合っていく、こういうことを通して前提知識が並列化される。
長年連れ添った夫婦なんかはこれが高い次元で達成されているのだろうか。
説明することを通して相手のことがわかる。それは良いことだ。
聞く側に負担をかける話はタイミングを選ぶべし
「会話=説明」になると、話を聞く側には負担がかかる。
理解しようとすることは脳を使うということで、これはカロリー消費がでかいらしい。自分も人の説明を聞いていると疲れる。
しかも、こんなことを「疲れている夕食時」にされてはたまったものではない。
説明を要する話をする場合には、相手に余裕があるタイミングを選ぶべきだ。例えば、休日の昼間とか。
何よりも相手を思いやることが大事だと思った。