MENU

子育ての懸念は青春スーツを着たヤツと一緒に暮らさざるを得ないこと

秋、青春スーツ、青春再放送(壹)

中高生くらいの普通の子供を見て思うのは「いろいろイタイな」と思うこと

 ほとんど家から出ない生活を送っていても、中高生くらいの子供と出会うことはある。出先の商業施設だったり、格闘技のジムだったりと、割と彼らの存在が目につく。

 そんな子供同士のやりとりと見聞きしていると、「いろいろイタイな」と思う。集中して聞けば聞くほど、上の画像の「青春スーツを纏ったやつ」を見た人の感想と同じような状態になる。

 原因はおそらく、「青春スーツを纏ったやつ」は、自分が発する言葉や考えを「十分に相対化していないから」だと思う。例えば、物事の善悪や可否を断定できたりする。「これはあり得ない」、「こうしておけば間違いない」など、物事を白黒つけるのは実は難しい。ある条件においてはそれは「あり得る」し、「間違い」にもなる。

 「相対化する」ということは、出した結論に徹底的にそれと反する結論をぶつけていく行為だ。具体的には、自分が出した結論に「それってほんと?」「なんでそうなの?」「こういう結論もあるけどそれについてはどう?」と疑問をぶつけていくことである。

 まぁこんなことを大半の中高生はできない。というか成人してもできない奴が大勢いるわけだから、それを子供に求めるのは酷だと思う。が、これができたときにやっと「青春スーツを纏ったやつ」から卒業できる。

 ちなみに、成人しても「青春スーツを纏ったやつ」でいたら、周りが感じる感想は「イタい」じゃ済まなくて、それを通り越して「哀れみ」を感じる。

 

青春スーツを着たヤツは「間違いの経験」が少ないから突っ走れる

 物事を相対化して考えるのに必要なことは、「そうしないで突っ走ったが故の間違いの経験」だと思う。間違いを犯して痛い目にあって、考慮が足りなかった、また、その時点で考慮できたのは浅い部分までだったことに気づく。そうしたら次回はもう少し慎重に考えたり、同じ間違いを犯さないように知らなかったことを知ろうとする。こうやって人は慎重になる。

 なので、手っ取り早く「青春スーツ」を脱ぎ捨てるにはたくさん間違いを犯すこと、そしてそれを反省すると言うサイクルを高速で回すことが有効かもしれない。まぁ下手をすると失敗が怖くて何もしなくなってしまう可能性もあるが。。

 

家の中に青春スーツメンがいると逃げられない

 外で出会う青春スーツメンが発する「イタみ」は無視したり逃げたりできる。むず痒い「イタみ」に我慢できなくなったらその場から立ち去ればいい。奴らは追ってはこない。

 しかし、家の中にいるとなると話は変わってくる。これはもう逃げられない。必ず関わらなければならない。

 心に余裕がある時は奴らからの「イタみ」に耐えられるが、そうでない時はもしかしたら落ち込んでしまうかもしれない。

 かといって子供が「青春スーツ」を着る前になんとかするのは良くない。子供が「青春スーツ」を纏うのは必然であり、権利であるかもしれない。「子供らしくある権利」みたいなもの。

 これは「青春スーツを脱げた者」が自衛の工夫をしなければならない。何かいい方法ないかな。