高等教育を受けるかどうかはかけた費用の元が取れるかどうかという考え方
以下では、「大学などの高等教育費用は高額なので、その費用をかけるならば、将来的に元が取れるのかを検討すべし」と述べられている。
確かにその通りかもしれない。
お金が稼げるなら大学に行く、大学に行ってもお金が稼げないなら費用がもったいないから行かない。
しかし、大学に行った人と行かなかった人には上記以外にもいろんな結末がある。
- 大学に行かなくて、お金が自分の生活が成り立たないくらい稼げない人。
- 大学に行かなくて、お金が自分の生活費くらいしか稼げない人。
- 大学に行かなくて、お金が他人の生活費も稼げてしまう人。
- 大学に行ったが、お金が自分の生活が成り立たないくらい稼げない人。
- 大学に行ったが、お金が自分の生活費くらいしか稼げない人。
- 大学に行ったおかげで、お金が他人の生活費も稼げてしまう人。
結局のところ、大学に行ったから何かが確定するわけではない。
大学の研究実績や卒業生の就職実績などから、「将来どうなれそうか」の可能性を探ることはできても、そうなれるとは限らない。
そもそも大学、引いては高等教育の金銭的価値などは、「ある、なし」で結論付けることができないのではないだろうか。
金が稼げなく、かつ、教養も身に付けなかった人間はどうなるのか
稼ぐ力がないので、お金はない。
大卒でもないので、仕事はあっても給料が安く、お金がない。かつ、教養もない。
この状態になってしまうと、よりよく生きれる可能性があまりに低くなってしまうように思う。
せめてどちらかは持っておきたいものだ。
教養の力
教養とは、「知識と知識を吸収した上に作られた考え方」だと思っている。
また知識とは、「先人が残した失敗と改善のマニュアル」だと思っている。
教養があれば、知識からより良い選択ができたり、また、似たような失敗につながる選択をしないことができたりする。
こういうことは金銭価値に換算することは難しい。が、よりよく生きる可能性を確実にもたらしてくれると思っている。
教養の力かもしれない学歴による賃金格差
もちろん、企業の給与体系として学歴が作用しているので、上記のような学歴ごとの賃金の差が表れていることは前提だが、それとは別に、より高い学歴を持った人間の方が「給料を如何にして上げるか」という知恵が使えるから賃金に差がつくと言う可能性もあるのではないだろうか。
高等教育が稼ぐ力に直結しなくても教養を土台にした考え方ができるようになればよしとする
高等教育で身につけられる教養は、知識を増やし、考え方を育んでくれる。
それは必ずしもお金を稼ぐ力に直接的に作用するとは限らない。
しかし、それはいつでもその人の人生を助けてくれる。
幸せになる可能性を生み出してくれる頭脳に投資すると思えれば、お金を払って高等教育を受けに行ってもいいのではないかと思う。
おまけ
教養を土台にした考え方のイメージはこんな感じか。
なかなか一言では表せないのがもどかしい。