- 他者が自己責任を追求しても意味がない
- 人によってできることは限られている
- 失敗した人に100%の責任があるとは言えない
- 他者が失敗した人にできるのことは「結果をどう受け入れるか」を一緒に検討すること
- 失敗の結果の責任をとるのは失敗した人個人である
他者が自己責任を追求しても意味がない
失敗した人に対して、他者が自己責任を追求しても意味がない。
なぜなら、本人の能力不足は本人の意図したものではないし、失敗した責任の100%が失敗した本人にあるとは言えないからだ。
人によってできることは限られている
人によってできることは限られている。
ある人にとっては簡単にできることは、他の人にとっても簡単にできることではない。
瞬発力が高い人、持久力が高い人、繊細な作業ができる人、力技が得意な人、気遣いができる人、ズバリと本質を突きつけられる人など、人によって得意なことがある一方で、反対にそれが全くできない人もいる。
人間のできる、できないのステータスは個々人で違う。
ステータスに違いがあるので、ある作業をする際に「楽勝でできる人」もいれば、「頑張ってもできない人」も出てくる。
これは仕方のないこと。
失敗した人に100%の責任があるとは言えない
失敗した原因の100%が失敗した人にあるとは言えない。
上記で述べた「ステータスの違い」に加えて、本人のコンディションや周辺的な事情等、いろんな要因で、仮に「失敗しないステータス」を持っている個人でも失敗してしまう可能性はある。
例えば、ある人は十分に能力を研鑽できており、ステータス的にもその仕事を十分にこなせる能力があるとする。
しかし、その仕事に取り組んでいる期間に、たまたま恋人に振られて生活が荒れてしまっていたとする。
そのせいでパフォーマンスを十分に発揮できず、仕事に失敗した場合は果たして失敗した本人に100%の責任があると言えるだろうか?
失敗した個人を取り巻く環境を広く眺めてみたら、他にも失敗に寄与した要素が見つかるのではないだろうか?
他者が失敗した人にできるのことは「結果をどう受け入れるか」を一緒に検討すること
失敗した人に対して、その失敗の原因をその人の中に見出したくなる気持ちはわかる。第三者は失敗した個人しか見えない。
しかし、そもそも失敗した人に100%の自己責任がある場合はほぼ存在しない。
失敗したのは、その目標に対して「向き不向き」があっただけ。
目標に対して、いつでも誰でも十分な努力をできるわけではない。
周辺的な事情で目標に対して十分なパフォーマンスを発揮できなかった。
そもそも「目標」は本人の意思とは関係なく、他者から押し付けられただけのものだった可能性もある。
であるならば、失敗した人の自己責任を追求しても意味がない。
それっぽいことは出てくるかもしれないが、それは検討不足なので何の解決にもつながらない。
であるならば、失敗した人に他者ができることは「自己責任の追求」ではなく、「失敗した結果をどうやって受け入れるか、一緒に検討する」ことしかないと思う。
失敗してしまったことは仕方がないし、2度と失敗しないこともできない。
であるならば失敗した結果をどうやって「仕方なかったこと」と理解して、心にダメージを負わないようにするか、失敗による影響を小さくしていくか、ということが現実的で建設的だと思う。
失敗の結果の責任をとるのは失敗した人個人である
失敗には、個人の資質や周辺的な事情があるので、必ずしも失敗した人に100%の責任を問えるわけではない。
しかし、例えば損失であるとか、失敗による結果の責任を取るのは失敗した個人である。
これは他者が失敗した人に自己責任を追求しようが、しまいが、変わらない。
これが良いか悪いかは別として、失敗の結果は失敗した人が引き受けるのである。
失敗した人は失敗した結果で苦しむのだから、せめて他者が自己責任を追求するのは遠慮してあげたいものだ。
ただし、失敗した人が「今後同じ失敗を繰り返したくないから改善したい。
そのために悪いところを指摘してほしい。」なんて言い出したらその時は力になろう。
それまでは他者は「失敗の結果をどう受け入れるか」を一緒に検討すれば良い。