『どんとこい!貧困』
湯浅誠[ユアサマコト]
著・文・その他
内容説明
「自己責任よ、これでさらばだ!」競争、無関心、上から目線。そんな「社会」をあきらめて受け入れるだけが人生じゃない。誰もが幸福になる権利がある、ここからスタート。重松清との対談付。
以下より引用。
かねてより「自己責任」について関心があった
成功の理由は、個人の努力であり、失敗の理由は個人の努力不足である。
こんなふうに考えていた。
個人が失敗した個人を「自己責任だ!」と糾弾するのは不毛
しかし、仮にそうだとしても、失敗した個人に対して、失敗したことを責め立ててもしょうがないのではないか、と思うようになった。
その失敗は個人の責任であるとも言えない場合もあるし、そもそも失敗したこと責めても状況は好転しない。
ゆえに、失敗した人を「自己責任だ!」と糾弾することはやめた。
詳しくは以下の記事を参照していただきたい。
一方で個人は失敗した個人を助けることはできない
一方で、個人では失敗した個人を助けることはできない、ということも認識していた。
失敗の程度にもよるが、個人のリソースでは、他人の失敗の尻拭いをするには足りないのである。
自分の人生を理想通りにしようとするだけで精一杯である。
そのことに集中しているうちは、お金も時間も体力も全然足りない。
なので、失敗した個人を責め立てることはしないが、一方で助けることもできない。
ここまでが『どんとこい!貧困』を読むまでの考え。
『どんとこい!貧困』を読んだ感想
「他人に対して言う自己責任」は存在しない
本書の考えでは、例えば、「努力不足だ!」などの「他人に対して言う自己責任」は、それを言われた個人(つまり失敗した人)の背景を考えると、必ずしも100%が本人の責任とは言えないので、自己責任ではないとしている。
おそらく、「自己責任」があるとするならば、何かをやろうとする個人が個人余剰リソースの範囲内で、かつ、自分がやりたくて「これは私個人の責任でやります」と宣言した場合に、結果的に「自己責任」が発生するくらいだろう。
「バンジージャンプ」や「スカイダイビング」をやる時に書く誓約書のようなもののイメージ。別にやりたくなかったらやらなくても不利益はない。
失敗した個人を助けるのは社会の役割
本書は、「失敗した個人が自己責任だと責め立てられず、むしろ失敗してもなんとかなる仕組みがあった方がいいよね。」という考えである。
他者に対して言う「自己責任」が存在しないのだから、それを理由に失敗した個人を救済する社会の仕組みを作らない、あるいは、潰すのは間違っている。
例えば、「金がないのは自己責任だから生活保護とかいらんやろ!」みたいなのは的外れなのである。
これには同意。
個人は失敗した個人を助ける仕組み作りを応援した方がいい
個人レベルでは失敗した個人を助けることはできないし、本書でもそのことは推奨されていない。
個人では失敗した人を「自己責任だ!」と責め立てるのをやめるくらいでいい。
もしも、余裕があるのならできる範囲で助けてあげればいい。
ないなら無理してやらなくていい。
一方で、民主主義社会においては、社会の仕組みは個々人の意見の総量で決まるので、個人として「失敗した人もなんとかなる社会の仕組みを望む」ことには価値がある。
なので、筆者も個人としてそういった仕組みが作られ、また維持されることを望む。(逆に言うとそれだけしかできないし、しないけども)