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人の価値は「誰かに必要とされているか」で決まる

 

人の価値は「その人自身」で決まるわけではない

 人の価値は「その人自身」で決まるわけではない。

 自分がどんな能力を持とうが、どんな人格になろうが、それ自体には価値がない。

 それは、どんなにレアなスキルを持っている人間になっても、どんな人にでも好かれる人間になっても、どんなに体力のある人間になったとしても、スゴすぎていろんなパラメータがカンストしても同じ。

 そういう素晴らしい人でも、一人で家にこもってダラダラしているだけの生活を送っている間は無価値である。

 その素晴らしい能力を他人のために使って、はじめてそれが価値あるものとなる。

誰かがその人を必要とした時にはじめて価値が生まれる

 能力は、それ自体では価値にならない。

 それに値段をつける人、情愛を注ぐ人、はたまた、ただ利用するだけの人。

 その能力を欲しがる人が現れて初めてそこに価値が現れる。

 誰にも見向きもされない能力は、その時点では無価値なのである。

やがて誰にも必要とされなくなったじいさんの話

 筆者と同居していた祖父は90数歳まで生きた。

 筆者が知る限りでは、もともと気性の荒い人で、暴力と怒号で自分に有利な関係性を作るのが得意な人だった。

 そんな祖父を筆者は嫌いだった。

 筆者が中学生くらいまでの時は、まだ「たまに小遣いをくれる」という価値があった。

 しかし、筆者が大学生になると、浪費や高齢者ゆえの出費でだいぶお金がなくなっていたので、「たまに小遣いをくれる」という価値は無くなっていた。

 一方で、その頃になると脳の経年劣化が進んで、以前よりも暴力と怒号を使う頻度が多くなり、筆者にとって祖父の存在は負の価値でしか無くなっていた。

 その思いは筆者だけではなかったらしく、脳の劣化と資産の減少が進むのに比例して、親戚が祖父を訪問する頻度が明らかに減った。

 その理由を親戚一同に聞いて回ったわけではないが、おそらく偶然ではない。

 無価値な人間に、自分の有限な資源を使うわけがない。

誰かに必要とされることをゴールに考える

 その人の持っているものが、如何に優れていようとも、それを他人のために使わなければ価値はない。

 そして人は価値のない人間に構っている暇はない。

 どんな能力を使い、何をやるにしても、それが「誰のためになっているか」ということを考えなければ、それは無価値な行動でしかない。

 そんな無価値な行動を続けていては、無価値な人間にってしまう。

 誰にも相手にされなくなるのは寂しいことだと思うので、気をつけていきたい。(とはいえこのブログって読者は少ないのだが。。あれ??まぁいい。

 一方で、自分の行動が「誰かのためになった時」は嬉しいんだろうな。

 そんな戒めと希望を胸に、今日も生きていこうと思う。