- 「今はやらない」は許容する
- スーパーから米が消える前に「投機筋の動き」については知っていた
- メダカは餌という感覚
- オシャレな人は表現したい自分を持ちつつも、客観的に自分が見れている気がした
- 足を知る者は富む
- 意外と褒められることは少ない
- この状況は筆者と同じだった
- 筆者も頑張るとすぐ病む
- うまそうなので我が家のご馳走枠として取り入れる
「今はやらない」は許容する
負けたけど、試合に向けて作った身体と技を維持するために、相変わらずジムには通っている。しかし、練習は全然楽しくない。本当につまらないのに惰性でやっている。スパーリングで殴られて痛いけど、それ以上のことは感じない。「やべぇ、なんだ今の攻撃。。どうすれば防げるんだろう?」とは思わずに、「まぁ痛いっしょ、そりゃ殴られてんだから」くらいにしか思わない。そんで練習が終わっても「疲れた」以外には何も思わない。
こういう状態では続けても得るものはないどころか、格闘技を心底嫌いになる恐れがある。作った身体はブヨブヨになっちゃうだろうけど、別のことしないとな。
スーパーから米が消える前に「投機筋の動き」については知っていた
なのに行動できなかったのが悔しい。。
流通や需給の仕組みも知らないくせに、「JAが管理するでしょ」とか「日本人の米離れ、とか言ってるし大丈夫でしょ」とか、楽観的な態度をとってしまった。
とはいえ、これによって「米じゃなくてもいい」という食事スタイルに変わってきた。これはこれでおk。
メダカは餌という感覚
小学校の時、メダカをクラスで飼育する、という期間があった。筆者は割と生き物が好きだったので、水槽をよく眺めていた。
一方、その当時は熱帯魚がブームであり、金持ちの友人は「アロワナ」や「ガー」など、肉食の熱帯魚を買ってでかい水槽で飼育していた。その熱帯魚たちの餌は金魚やメダカで、ペットショップには餌用のそれらが量り売りされていた。
筆者はよく友人の水槽を見せてもらいに友人宅に通っており、餌やりの現場をよく見ていた。クラスで大切に飼育していたメダカが、別の水槽では毎日のように餌として消えていく様がなんだか不思議だった。
それから筆者はクラスのメダカの水槽はあんまり見なくなった。あの飼育イベントがいつ終わったのかももう覚えてない。メダカは最後にどうなったんだろうか。
オシャレな人は表現したい自分を持ちつつも、客観的に自分が見れている気がした
主体性と客観性のバランスが取れている人はオシャレに見える。いや、美しく見える。
主体性だけだと奇抜な自己満足スタイルになり、客観性だけだとみんなと同じの量産型スタイルになる。なので、この2つのバランスは大事だと思った。
足を知る者は富む
家計が黒字ならどんどん人生は自由になる。少ないお金で満足するのは自由の土台になる。
意外と褒められることは少ない
だから自分で自分を褒めるしかないのが実情。そこに気づくとようやくセルフメンテナンスができる気がした。
この状況は筆者と同じだった
筆者もほとんど同じような状況だった。
仕事が忙しくなって余裕がなくなると、それがあらゆるトラブルの土台になる。お互いに憎み合ってなかったのに争うようになる。
だから筆者はもう忙しくならないようにすると誓った。夫婦が仲良しでいる以上に必要なものってなんなんだ?
筆者も頑張るとすぐ病む
とはいえ、それは問題じゃなくて、頑張ること自体が問題なんだと思った。頑張らなくてもできることってたくさんあるじゃないか。
うまそうなので我が家のご馳走枠として取り入れる
すごくうまそうなので、最近ネタ切れ気味だった我が家のご馳走枠にぜひ取り入れさせていただく!