子供に自由に「自己決定」してほしいわけじゃない
大学の同級生(以下、ヤツ)が、田舎の学校に赴任して「自己決定することの大事さ」を教えて回っているらしく、その「講演」を聞きに行ってきた。
筆者も、「自己決定することの大事さ」については同意しているが、その「講演」で語られた「自己決定」には、本当に子どもたちの自由な決定を尊重するものなのだろうか、という疑問を持った。「自己決定」の美名のもとに、「社会にとって都合のよい人間」を育てようとする圧力が働いているんじゃないか?と思い、話を聞いている間、ずっとモヤモヤしていた。
ヤツは、「子どもたちに早いうちから自己と向き合い、決定する経験をしてほしい」と語っていた。動機自体はすごく理解できるが、その先には「自分で考えた結果、主体的に頑張る子供になってほしい」という、暗黙の理想像があるように思えた。
例えば、子どもが「頑張らない」、「社会から距離を取る」という選択をしたらどうだろう?多くの大人は、それを「自己決定」としては認めず、「誤った選択」とみなすのではないか。たとえば「自分は生活保護を目指して生きたい」と子どもが言ったとき、それを真正面から応援できる大人はほとんどいないだろう。だが、その選択の裏に「失敗して傷つきたくない」、「自分のダメさで社会に迷惑をかけたくない」という葛藤があるなら、それは決して安易でも無責任でもない。むしろ極めて誠実な自己決定だ。しかし現実には、そうした「社会にとって都合が悪い選択」は排除され、語られることもない。それどころか「あきらめるな!頑張ればできる!!」みたいな言葉で「できない奴」をポジティブに追い詰める。
ヤツにそれについて聞いたところ、そういう子供は適性を見て「頑張らせる」か「放っておく」らしい。まぁ先生としては妥当な判断だと思う。これは結局、教育が「自由」を掲げながらも、実際には「大人にとって望ましい結論」へと誘導していることを意味する。これでは「自己決定」ではなく、「洗脳」なんじゃないかとさえ思える。
しかも「この誘導」は、「子どものため」という善意を装って行われるため、加害者意識が生まれにくく、批判もされにくいのも厄介なところだと思う。疑問を呈する者は「空気を読めない人」、「前向きじゃない人」として静かに排除されていく。善意にブレーキが効かないこの構造こそが、最も危うい。
ここまで、ヤツの「講演」を元に、批判的に「学校教育が促す自己決定」を考えてきたが、筆者は自身、これを正すつもりはない。ただ「自分の感覚」に嘘はつきたくないだけである。
邪魔はしないけど、「それは言わないお約束」みたいな空気を盾にして、この疑問に真剣に向き合わないんだったら応援もしない。「講演」の最後にヤツに「ご支援」を求められたので、この場で本気を出してアンサーしてみた。
2025年3月24日読み回り感想メモ
分母の錯覚に切り込み、真実を見極める眼が実にいい。
疑問に真っ向からぶつかり、感覚よりもデータを信じるその姿勢がすてき。
読みたくなった。。
筆者も好き。。見る専だけども。
katari-mata-katari.hatenablog.com
この文章のサイズ感、すてき。
豊かさとは生産性を意識しないで済む状態なのかもしれない。
筆者もリタイアを「終わり」ではなく「新たな人生」として考えたい。
自分を律するモチベーションの1つが情熱なのかもしれない。
大学を出てからのルートが筆者と似ていて親近感と安心感を覚えた。。
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