株が下がってビビり散らかしてる妻
トランプ関税を端として、我々が保有している「オルカン」をはじめ、米国株の価格がオニ下がりしている。これについて、筆者の真似をしているだけの妻はこの世の終わりみたいにビビり散らかしている。
「株が下がったこと自体にビビるんじゃなくて、どうして下がってるのか、を自分で調べて考えて納得してみたら?」と提案するも、「どんなに調べて考えても、未来のことはわからないのでそれは無駄。」と考えているらしく、相変わらず毎日ビビり散らかしている。「狼狽売り」ってこういう人がやるんだろうなぁと思って観察しているも、この姿勢自体には問題があると思い、考えてみた。
「未来はわからない」けど、だからって考えなくていいわけじゃない
「未来のことはわからないから」と、考えること自体を放棄する人がいるが、筆者は、そういう態度をはっきり否定したいと思う。たしかに、未来は本質的に不確定だ。明日の予定だってキャンセルされるかもしれないし、約束は破られることもある。でも、それを理由に「考えない」「備えない」ことが許されるわけではない。
人間は未来を完全に知ることはできない。これはどうしようもない限界だ。でもそれを理由に、「未来をどうありたいかを想像し、それに向けた意思決定を積み重ねる」ということを放棄してはならない。未来が不確かだからといって、例えば、「腹が減ったら食う」、「ほしくなったら買う」、「買えないなら奪う」という刹那的な行動ばかりしていたら、それはもはや野生動物と同じだ。(そういうやつは結構いるけども。。)どんなに「マインドフルネス」が流行っていようが、一事が万事それで済ませていいわけではない。(「マインドフルネス」っては多分そんなんじゃないと思うけど。。)
重要なのは、「わからないこと」と「考えなくていいこと」を混同しないことだ。未来を完全に予測することはできないが、起こりうる可能性を整理し、方向性を持って備えることはできる。たとえば、「信用」や「構造」、「実績」や「事実」といった要素は未来がわからないからこそ、未来を考えるうえで価値があるモノだと思う。これをもとに、未来のシナリオを仮説として立てておくことは十分可能だ。
たしかに、投資を例にとれば、「オルカン」を持ち続けることが最適解なのかは、「10~20年後の運用をやめるとき」にならなければわからない。でもだからといって「どうせわからないからテキトーでいいや」と思考を止めてしまえば、その時まで「オルカン」を持ち続けることすらできないだろう。
だからこそ、未来を考えて「成功シナリオ」と「失敗シナリオ」の両方を、仮にでも描いてみる必要がある。例えば、前者は「資本主義が今後も維持され、世界人口が伸び続け、新興国市場も拡大し、消費が成長するパターン」で、後者は「資本主義が限界を迎え、人口は増えても経済は停滞し、消費が縮小するパターン」だと考えることができる。これらの「ざっくりした仮シナリオ」に対して、日々のデータや社会の動きからヒントを拾い、「具体的シナリオ」に更新し続けることで、柔軟かつ現実的な意思決定が可能になる。
結局、問題なのは、思考停止を正当化してしまうことだ。「未来はわからない」と言って考えるのをやめるのも、「ノれそうなシナリオができたからそれでよし」と満足して思考を止めるのも、どちらも同じくらい危険だ。大事なのは、学び、考え続けること。