就職をはじめ、生活に必要な「稼ぎ」の得かたを考えてみた
2025年4月23日時点で、こんな感じで「就活」をしている。
希望の労働条件で目標の金額が得られれば、とりあえずはそれでいいのだが、せっかくなので「どんな仕事をした方がいいのか」についても考えることにした。
幸いにも「なりふり構わず稼がなきゃならない」ということはないくらいに生活をコンパクトにしている。なので、できれば「自分が納得できる仕事」に情熱や体力、時間を使ってみたいな、と思ったのである。
「価値を生まない稼ぎ方」が増えると、社会は貧しくなる
ただ単に、「お金を稼ぐ」ということならば、そのやり方はたくさんある。「職業に貴賎なし」という言葉があるらしいが、筆者には「下品に感じる職業」もある。そして、できれば、そういうことを仕事にしたくない、と思っている。
では、「下品でない」あるいは「上品」な稼ぎ方ができる職業をどう考えていけばいいだろうか。以下で考えてみる。
モノやカネのありがたさは、それ自体にあるのではなく、どう使われ、どう流通するかで決まると思っている。どれだけ多くを持っていても、それが他者に恩恵を与えないなら、ただの独占でしかない。
もちろん、価値あるサービスや製品を生み出し、その対価として得られる収入は問題ない。(もっとも何を「本質的に価値のあるモノ」とするのかを考えるのは「リソースが有限である世界」においては大事だが、ここでは考えない)それは社会に「実需」として還元されるので「正統な稼ぎ」と言っていい。しかし、近年目立つのは、そうではない収入、たとえば「所有権や転売」によって生まれる利益だ。株を持っているだけ、土地を貸しているだけ、不動産や商品を転がすだけ。これらは確かにリスクを負っているとはいえ、その稼ぎが「新しい価値を創った」といえるかどうかはあやしい。
例えば、土地は、「誰が貸しても」、そこに建つ建物や使い方は同じだ。株主が誰であっても、その会社が生み出すサービスの質は基本的に変わらない。それでも権利のオーナーに収入が発生するのは、結局のところ「先に持っていた人が有利」という構造ゆえだ。これは、努力や創造による報酬ではなく、立地やタイミングの差による利得でしかない。
上記を踏まえて世の中を見ていると、「不労所得」を目指す投資ブームにも違和感を持たざるを得ない。FX、配当株、不動産投資…どれも「どうすれば価値を生み出せるか」ではなく、「どうすれば他人の稼ぎを自分の取り分にできるか」を追っているように見える。これは「収奪の技術」を磨いているにすぎないんじゃないかとすら思える。しかも皮肉なのは、そうしたブームに乗る「収奪者見習い」たち自身が、実はより大きな「ブームのオーナー」に搾取されていることだ。高利回りをうたうワンルームマンション投資、『かぼちゃの馬車』、『みんなで大家さん』、怪しいファンド案件などなど、、その多くがビジネスの実態の伴わないポンジスキームに近く、資産を増やすどころか、むしろ吸い取られて終わる。「資本主義ってそういうものだろ」と言われれば確かにそうだ。でも、それを開き直って収奪側に回ることが「賢さ」や「成功」だとは、筆者は思わない。
おそらく、「価値を生む営み」は、たとえば誰かの困りごとを解決する、生活を少し楽にする、喜ばせる、学びを広げるといった行為であると思っており、筆者はそういうことに力を使いたいと思っている。
では、「具体的にどんな仕事をするのか?」ということは結局考えついていないが、とりあえず「やらないようにする仕事像」を1つ見出したので、今回の考えによって、消去法的に理想の仕事にたどり着く可能性を高めることができたと思う。なので、ヨシとする。
ちなみに筆者が「オルカン」を持ってるのは「自己責任の時代の自己防衛手段」(誰かが生活を保障してくれるならこんなくだらないことはやらない。)としてだし、分散・長期保有の投資は、少なくとも「収奪の技術」を磨いているわけではないので、「社会を歪める行動」とは言いづらいと思っている。