妻の実家付近に引っ越して、協力できる家族が増えた
2026年に地方移住するためのつなぎとして、妻の実家付近に引っ越した。これによって、さまざまな「スケールメリット」が得られるようになったし、何をするにも頭数が多いのでやりやすい。
一方、近くで生活すると、妻の家族の生活の仕方に危うさが見えてくる。金遣いは荒いし、運動しないので不健康で、かつ、慢性的な持病が複数ある(痛風、高血圧、高血糖)。そしてそれらを改善しようとせずに、放置している。おそらく、あと5年以内には家族の誰かが入院するだろう。そして、そうなれば住宅ローンをはじめとした借金もあるので貯蓄が吹き飛び、生活が破綻するだろうと予想している。
今すぐに、収入の範囲内で暮らして貯蓄もするし、健康診断の結果を無視せずに、病気が治るまで病院に通い、きちんと医師の指導を実践する、ということをやってほしいが、そうする気配はない。(やんわりとは忠告しているが)
そして、筆者たち夫婦もそんな家族を最後まで面倒を見ることは、金銭的にも労働力的にもできない。なので妻の家族に依存すると、感情的にも金銭的にも深刻な損失を被ることになる。それは避けなければならない。なので「スケールメリット」を得つつも、それは依存的じゃなくて、win-winの形になるように調整したり、すぐに精算するようにしている。
人間関係的には悪くないので、できれば末永く協力して暮らしていきたいと思うが、それは難しそうなので歯がゆく、そして悲しい。。
人とつながることの利点と欠点を同時に感じている話
そんな妻の家族との関係から、筆者が求める「仲間」という存在が少し明確になったので、以下にその考えをまとめる。
一人で増やせるリソースは足し算的だと思う。自分がやった分しか増えない。でも人と協力すると、うまくいけばその増え方は掛け算的になる。得意なことを分担し、持ってるモノや情報、技術を共有すれば、一人では到底実現できないことができるようになる。これは人間関係の最も魅力的なとこだと思う。
しかし、良いことばかりでもない。当然、その逆もある。もし、そういう関係を結んで協力している誰かに「保全意識」が欠けていると、リソースは逆に掛け算的に失われていく。例えば、信用を無自覚に踏みにじる人、自分の未熟さに無頓着な人、トラブルを自分ごととして扱えない人など、そういう存在が一人混ざるだけで、全体が一気に疲弊していく。だからこそ、つながる相手は慎重に選ばないといけない。
「人はつながれば強くなる」と言うのは正しい。でも、それは「相互に責任感とリスペクトがある前提である場合に限る」、と思っている。そこが崩れている関係は、どれだけ便利であっても、いずれ崩れる。筆者は、こうした信頼の土台がある関係を「仲間」と呼んでいる。「仲間」は単なる「友達」や「家族」、「仕事仲間」ではなく、立場や血縁を超えて「この人とは本気で協力できる」と思える存在だ。
ただし、「仲間」になり得る人かどうかを見極めるには、時間がかかる。人を前にして最初に目に入るのは、その人の能力や資産などの目に見える「正のリソース」だが、それが魅力的に映るときほど、その裏側の「負のリソース」には目が行きにくくなる。そして、その「負のリソース」こそが、後々効いてくる。だから筆者は、「時間をかけてたくさん話をするし、一挙手一投足を観察する」、といったプロセスを省かないようにしている。面倒くさいけれど、ここをさぼると、結局自分が壊れてしまう。
この時に重要なのは、自分もその人も「内省し、それを言語化し、さらに行動に反映できるか」ということだ。考えているだけでは他人には何も伝わらない。かといって、言ってることとやってることがズレていては話にならない。つまり、「お互いにちゃんと考え、ちゃんと伝えて、ちゃんとその通りに行動する」ってことが大事なのである。
こう考えると、「仲間」は最も得難い関係だと思う。「仲間」とはつまり、相互に信頼と誠実さをベースにつながる、心地よくて実効的で、何より裏切りたくないと自然に思えるような関係。そんな人が一人でもいれば、それだけで人生はずっと「豊か」になると思う。