命は「燃やす」ものじゃなく「育てる」もの

「今だけを楽しむ」つもりで生きている友人たちが次々と苦境に陥る

 筆者(執筆時点で35歳)の同年代の友人が次々と苦境に立たされていく。前回の「妻の家族の件」も含めて、筆者の周りには不幸の磁場でもあるのか?と疑いたくなるが、全員が「珍しくもない問題」に直面しているので、おそらく筆者の周りだけじゃないだろう。

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 友人たちの場合は、子供を作る=>戸建てかマンションを買う=>ついでに車を買う、の順で手に入れた結果、お金、時間、健康(体力)面でカツカツになって苦しんでいる。よくある話過ぎて話題としては面白くもない。

 こういう、「今を楽しむ」姿勢の正体は、厳密には「今だけを楽しむ」というもので、「楽しみの持続可能性」は考慮していない。だから、あらゆるリソースがカツカツで、そのうち「楽しい環境」が崩壊する。

 こういう「今だけを楽しむ」姿勢は、「命を燃やしながら生きているよう」に見える。筆者はチキンなので、こういう生き方は怖くてできない。むしろ、「1日ごとに力をつけて安心できる」姿勢で「命を育てながら生きている」と思っている。

命は「燃やす」ものじゃなく「育てる」もの

 「命を燃やして生きること」と「命を育てながら生きること」は、根本的に違う生き方だと思っている。前者は、情熱や自己犠牲によって一時的に強く輝くが、やがて燃え尽きてしまう生き方。まるで花火のように、眩しいがすぐに力尽きて終わる儚さがある。一方で後者は、自分を保存しながら少しずつ積み上げていく生き方で、時間とともに厚みを増していく。簡単に言うと、「早熟短命」と「大器晩成」ってこと。人間の生き方としては、若いうちに頑張り、楽しみつくしてあとはジリ貧になるのが前者で、ゴールに向けてリソースを作り、蓄え、年を取るごとにできることが増えていくので後者。どちらが正しいという話ではないが、選んだ道によって、人生の満足感は大きく変わってくると思う。

 筆者のまわりでは、命を「燃やしている人」が圧倒的に多いように感じる。そして、それは個々人の好みというよりは、「刹那的に楽しむこと」や「とにかく頑張ること」、「自己犠牲を尊ぶこと」が社会で称賛されやすいからだと思う。そういう「瞬間最大風速」を出す生き方は派手でドラマチックで、その結果として燃え尽きることすら美しく見える。SNSとも相性がいいので「バーチャルな肯定感」が得やすいだろう。結果、人はドラマチックに自分を差し出すことに酔いしれ、それを誇りと錯覚してしまう。だが、自分の人生として見たとき、筆者はその終わり方には空虚さを感じる。別に他人の心を打つために生きているわけじゃないし、きれいに燃え尽きればいいが、大抵は輝きを失った後も、「燃え殻」としてゾンビみたいな状態で本当に死ぬまで生き続けることになるのは嫌だと思っている。

 さらに厄介なのは、そうした生き方が「美徳」として教育され、消費と労働に適応した人間像として理想化されていることだ。努力と献身が正義であるかのように語られ、それに疑問を抱くことさえわがままのように思わされている。この構造から抜け出すには、「あれ、なんか変だな」と感じる違和感を無視しないこと、そしてそれを言葉にして距離を取るための習慣が必要だ。(これは筆者が毎日やってるやつ。まぁそれもそれでどうかと思うけど。。)

 一方で、「命を育てる生き方」とは、「他人からの承認とは無関係に、自分の思考、身体、暮らしに丁寧に向き合っていくこと」だ。外から見れば地味で、成果が数字や賞賛という形では見えづらい。しかし、やっていると自分という器が確かに強くなっていく実感がある。この地道な積み重ねが、自分の軸をつくってくれると思っている。

 ただし、この生き方をやり通すには、「自分で自分にOKを出す力」が求められる。そしてそれは、言うほど簡単なことではない。自分で自分のOKを信用できないと、他人に認めてもらえないと不安になったり、ちょっとした批判にぐらついたりすることもある。自分が揺らげば、あっという間に「早熟短命のゾンビ」になるように社会に仕向けられる。揺らがないために大事なのは、「自分が、今、理想に向かっていることを実感できて、かつ、それを喜んで生きているかどうか」を認識することが必要。このことに比べたら、実は他人の評価なんて「ちょっとのこと」でしかない。

 自分の生活が心地よいか、自分が納得していられるか。その感覚に正直であり続けることこそが、自分の命を自分の手で丁寧に育てていくということだと思う。