自分で考えるのをやめた先に待つもの~『メタルギアソリッド2』とIDUNの『華毒』~

自分で考えるのをやめた先に待つもの~『メタルギアソリッド2』とIDUNの『華毒』~

 『メタルギアソリッド2(MGS2)』に登場する『Selection for societalSanity(社会的健全性のための選別)』は、情報操作によって人々の思考や行動を制御し、社会の秩序を維持することを目的とした計画である。これはもはやゲームの中のフィクションだけの話ではなくて、現実でも、ニュースの報道順やSNSの表示、検索結果など、「偶然見つけた」と思わせるものは、ほとんどがアルゴリズムや誰かの意図によって選別されている。例えば、誰かを「ネトウヨ」にしたければ、「日本サイコー、でも近隣諸国は悪くて無能」みたいなコンテンツでそいつを包囲してやればいい。ちなみに筆者の父親はそれで「ネトウヨ」化して周りが困っている。。

 このように筆者たちは「コンテンツそのもの」というよりも、「文脈」によって価値観や認識を形作られている。そしてMGS2が描いたこのテーマは、すでに現実となっている。情報が過剰にあふれる現代において、「なぜこれが目の前にあるのか」、「それは自分にとって何なのか」と問い直すことを怠れば、気づかないうちに大きな流れに飲み込まれていく。なので、これは単なるゲームの中だけの話ではなく、今を生きる筆者たちへの警告だと言っていい。

 同じように鋭い皮肉を込めた作品が、パチスロ『押忍!操』の楽曲であるIDUNの『華毒』である。

刹那に遊ぶ

それが何を残し何を生み出すのか

見えやしない

 パチスロという、むしろ思考を停止させに行くような場所で、この曲は「場違い」な気もするが、自分で考えず、快楽に身を任せる人々へパチスロ胴元からのせめてもの良心な気もする。。今この瞬間だけを楽しみ、考えることをやめた人間が、どれだけ空虚なものしか残せないかを象徴している。

 もっとも、人は完全に自由ではない。言語をはじめ、社会や文化、教育、経済といったあらゆる「枠組み」の中でしか選択できないのが現実である。しかし、だからといって「どうせ操られている」、「他人のせいだ」と投げやりになるのは違う。重要なのは、「どこまでが自分で、どこからが外部なのか」を意識的に分けて考え、選択における「自分」の比率を少しでも増やしていくことだ。

 さらには、「操られていても、ユートピアに導かれるならそれでいいのでは?」と考える人もいるかもしれない。確かに、枠組みが善良で永続するなら問題ない。しかし歴史は、その幻想がいかに危ういものかを何度も示してきた。善意が続く保証はなく、枠組みが崩れた瞬間、そこに依存してきた人々は何もできないまま取り残されることになる。未だに「社会が悪い」、「政治が悪い」と徹底的に他責で、文句を言うことしかできないヤツは山ほどいるように。

 結局、考え続け、選び続ける力を持つことは、意識高い系の話ではなく、サバイバルのための現実的な自己防衛の方法なのである。周りに流されるのも時には悪くない。きっとそれも楽しい。ただ、それだけをやって生きていくならば、いずれ「誰かの都合の良い家畜」にされる。そう考えれば、「自分に問い続ける意味」は十分すぎるほどあると言える。

参考

www.youtube.com

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