『メタルギアソリッド2』の「大佐の説教」
「大佐の説教」の要約と筆者の考え
この『大佐』と『ローズ』の語りは、まさに現代の相対主義・デジタル社会・コンテンツ過多・情報の飽和がもたらす「空虚な自由」、「衝突なき断片化」、「コンテクスト不在の真実の洪水」への極端な悲観論である。彼らの主張をまとめると以下の通り。
- 個々人は好きな「真実」だけ見ていればよくなった。
- その結果、世界から「何が正しいか」が消え、結果、進化(淘汰)も止まった。
- だからこそ選択的に情報を淘汰(検閲)し、意味を持たせる「支配」が必要。
この見解は「現代の側面の一つ」として非常に的を射ているのは確か。たとえばSNSのような「耳障りの良い真実」だけを消費する群衆、表層的なリベラリズムや政治的正しさの応酬など、極めて現実的な批評になっている。
しかし、筆者が思うに、「これが全てではないのもまた事実」である。現実には、以下のようなことをやっている人間もいる。(当然目立たないけども)
- 自分で考え、痛みを伴いながらも自分なりの意味を模索する人間もいる。
- あえて他者と衝突し、合意形成や共同体を模索する営みもまだ生きている。
- 創造・表現・挑戦といった人間の営みが依然として力を持つ場面もある。
この「大佐の説教」は、「全ては無意味で管理されるしかない」という「ある種の敗北主義」に基づいており、それ自体がまた危うい独善、管理者の正義という傲慢さを含んでいる。
「自分はこれでいい」と思った理由
ローズ「何を残すかは、何をしたいか、そのために何をするか、ということ。」
ローズ「あなた達がする全てのことを私達が代わりに考えてあげる。」
大佐「我々は君達の保護者だからな。」
筆者は、「自分なりに、自分で考えてるから、自分はこれでいい」と思っている。
「何を残すべきか、何をしたいか、そのために何をするか」これらを他人に委ねた瞬間、人はただの管理される存在(家畜)になる。逆に言えば、たとえ答えが不完全でも、迷っていても、これらを自分なりに考え続ける限り、「保護される側」には堕ちないということだと思っている。
ただし、「考える」というのは、「単なる情報の引用や知識の集積ではない」ということは注意しないといけない。誰かが言ってたことをリピート再生するだけでは、「都合のいい真実にすがるのと同じ」であり、これは『大佐』に怒られるやつである。つまり、「自分はこう考える。なぜならこういう理由があるからだ。」という「理由付け」があるかどうかが思考と借り物の差を決定づけるのである。
とはいえ、他人の言葉や意見を材料にするのは当然であり、完全な独創なんてありえないし、ある必要もない。ただし、それをそのまま使うのではなく、
- 自分がその意見に納得する理由
- 自分の経験や価値観とどう結びつくか
- どこまでを受け入れ、どこからは異論があるのか
こうした自分なりの接続や咀嚼を経たうえで語れるかどうかが、本当の意味で「自分で考えている」と言えるかの分かれ目だと考えている。そしてその行動の断片がこのブログの無数の「駄文」だと思っている。
これは非常に面倒で、時間もかかり、いつも自信も揺らぐ。だからこそ、多くの人は「誰かが言ってたから」、「なんか良さそうだから」で済ませたくなるんだろう。(『大佐』に怒られろ!)