遺伝子からミームへ~「血ではなく意志」を残すと決めた理由~
子を持たない人生を選んだ。コストの問題もあるが、本当は、そこまでして残したい血や遺伝子に意味を見いだせなかっただけかもしれない。
生きることを「自分一代で完結する営み」と捉えれば、話は単純だ。自分が納得する行動を選び、都合の良い生き方をすればよい。子育ても、メリット・デメリットで判断するのが合理的になる。しかしふと考えた。もし自分が「脈々と続く血族の先端に立っている存在」だと自覚し、その役割と責任を感じていたなら、おそらく、子育てを単なる損得だけでは割り切れなくなっていただろう、と。
では、そのような自覚や役割と責任感は、どうすれば持てるのか。結局のところ、それは「脈々と続く血族」の歴史が、代々の当事者たちによって意識的に紡がれてきた結果としてしか生まれない、と思っている。が、筆者の家族にはそもそも「その土壌がない」のだと思った。
今年新卒で会社員になった筆者の弟が会社を辞めたという「おもしろイベント」もあって、ゴールデンウイークを機に実家に帰ってみた。筆者の両親をはじめ、兄弟間でもその絆は薄い。なので、就職をはじめ、家計管理など、「生きていくためのスキル」は「継承」されない。それぞれが同じような失敗をしているし、伝えようとしても「おやじの説教」のごとく互いにスルーする。野生動物でも仲間がやられたら、その場所や状況を警戒するようになりそうなもんだが、少なくとも筆者の一族はそれができていないようである。
「一族意識」をもって、子供を作り、育てていくには、世代の一代一代が、「自分はこう考え、こう生き、こうなった」という意志を言葉なり記録なりで残し、次代へ「継承」していく必要があると考えている。それが積み重なってはじめて、「自分もこの流れを繋ぐ一人だ」という自覚が芽生えるのではないか、と思うが、現状では少なくとも筆者の家族では直近三世代はそのような「継承」は行われていないし、行われうる土壌もない。それぞれが好き勝手にやっているのである。
皆が皆、「継承」を意識する余裕もないくらい「自分のことで精いっぱい」では、一族の意志も、物語も、繋がれることなく消えていく。そうやって「とりあえず自分さえよければいい」となった血族が、時を越えて存続するはずもない。歴史に残る名家は、きっとこの「継承」を当たり前のこととして続けてきたからこそ、今も存在しているのだろう。たまたま一時代だけで膨らんだ成金と、彼らのような名家の違いは「そこ」だろう。
しかし、一方で、自分が生きて、感じた何かを残せないのもそれはそれでさみしい。『ソリダス・スネーク』の気持ちはよくわかる。しかし、次世代を作らず、手近な家族にも「継承」できないし、しようとも思えない。そこで筆者は、遺伝子ではなくミーム――「意志や考え方」――を残すことに興味を持った。まさに、あなたが見ている「この駄文」がその一貫である。「この駄文」も、未来の誰かが偶然手に取った時、ひとつの系譜として繋がっていくかもしれない。
もしかしたら、筆者までは「遺伝子」で繋がってきたが、筆者からは「ミーム」として繋ぐことこそが、これからの時代の「一族の残り方」なんじゃないか、と思えて少し、うれしくなった。