またしても妻と「子供問題」でモメた
筆者夫婦は「子供を作らないこと」で一旦は合意した。
しかし、それは「しかたなく」の合意であり、特に妻は心から腹落ちしてはいない。
お金があれば。時間があれば。誰かが支えてくれれば。そんな「もし」の可能性に、どこかで希望を残したまま生きているように見える。
筆者からすると、「そんな可能性にすがって、何も行動せずに後悔を育てて生きるくらいなら、何かを捨ててでも可能性を掴むために行動すればいいのに」と思う。そういう熱意があれば筆者も前向きになるかもしれない。
けれど、その「正論」は、あくまで「筆者の世界観」」の上で成立しているだけだ。
「妻の世界観」で見れば、それはただの「意見」にすぎない。
ただの「意見」の投げつけ合いではなく、相互に「納得」できる会話をするには、お互いの「考え方のルーツ」をお互いに理解しないといけないのである。
問題は「考え方のルーツ」がわかっていないこと
「それ、やめたほうがいいよ」
そう言われて、素直に直せる自分の考え方なんて、そうそうない。
むしろ、「なんでこうしちゃうのか、自分でもわからない」と感じることの方が多い。自分でも理解できないから、自分をうまく制御できない。
でもこれは「その人が狂ってるから」とか「意志が弱いから」なんて話ではなくて、自分の「考え方のルーツ」がわかっていないからなんじゃないかと思う。
人の行動や思考には、「自分ルール」が複雑に絡み合っていて、それらをすっ飛ばして、「表に出てきた行動や意見」だけを見ても、本質にはたどり着けない。
「なぜそうなのか?」を本気で理解しようと思うなら、自分の中にある無数のルールや価値観の積み重なり、つまりその「考え方のルーツ」を掘っていくしかない。
「世界観」は、自分ルールの集合体
- 「これはいくら出しても買ってもいい」
- 「これは無料でも手に入れちゃダメ」
- 「困ってる人には無償で提供しないといけない」
- 「弱ったやつから巻き上げる方が効率的。だから積極的に行け」
人はこうした「自分ルール」を前提に世界を見ている。
どれが正しいかではなく、その人なりの「正しさ」が世界観をつくっている。
そして、この「自分ルール」は、他人からは見えない。だからこそ、「その考え方おかしくない?」と言われても、簡単には直せないのである。
なぜなら、そのルールは単体で成立しているのではなく、また別の自分ルールに依存しているからだ。
「自分ルール」はソースコードみたいなもの
この構造は、プログラムのソースコードによく似ている。
どれだけ「ダメなコード」に見えても、依存関係が入り組んでいるなら、うかつに書き換えると全体がバグって動かなくなる。
「自分ルール」も同じで、安易に変えると人格がグラグラして自分を保てなくなる。
「ダメな自分ルール」も含めての今の自分なのである。
だから変えるなら、全体を読み解き、順序を見極めながら修正していく必要がある。
「自分と向き合う」ことの正体
「自分と向き合う」とは、ポエムでも根性論でもなく、こういう「自分ルール」を読み解いていく技術的な作業だと思っている。
自分にはどんなルールがあって、それを変えるべきなのか。変えるなら、どこから手をつけるべきなのか。
それを静かに、自分だけの作業として進めていく。
これが「自分と向き合うこと」の正体だと思う。
そして、これは誰かに合わせて生きるためにやるんじゃなくて、自分の意思で生きるために必要なことだと思っている。