事実と想像を分けて考える意識が、インターネットを集合知として機能させる

 「調べれば知りたいことがわかる」。これがインターネットの最大の意義だと思っている。自分が知りたいことを、すでに調べた誰かがいる。やろうとしたことを、すでに試した誰かがいる。さらに、他人の視点や経験を土台にして、新しい発想を生み出すこともできる。こうした知見に自由にアクセスできることが、インターネットという「集合知」の価値だと思う。これがあるから人は、無駄に試行錯誤せずに済む。「調べりゃわかる」と安心できる。本当にありがたい仕組みだと思う。

 

 ただし、この「集合知」の質を保つには、その発信のやり方に気を付けなければならない。とくに問題なのは、誤った情報や、根拠のない想像を事実のように語ることだ。それを信じた誰かが、誤った判断や行動を取ってしまえば、結果として害を生む。

 

 たとえば政治に関して、「すべては仕組まれた陰謀だ」、「裏で◯◯が操っている」などと断定的に語る人がいる。だが、多くの場合、それは証拠のない推測や都合のいい物語を組み合わせただけのものだ。こうした陰謀論が広がることで、現実的な課題に向き合う力が失われ、社会の議論が不毛な方向に流れてしまう。いい大人が平気でこういう話を広めているのを見ると、正直救いがたい気持ちになる。

 

 最近、魚豊氏の『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』を読み始めたので、なおさらそう思う。。

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 だが同時に、これは決して他人事ではないとも思う。誰でも、自分にとって都合のいい話を信じたくなる瞬間があるし、無意識に事実と想像をごちゃまぜにしてしまうこともある。それが自分の中だけで完結するならいいが、それを発信するなら「これは事実か? 想像か?」、「誰にとって意味のある発信なのか?」と問い続ける姿勢が必要だと思う。そして、常に「自分は間違っているかもしれない」という前提に立ち続けることが、発信者の最低限の責任だと思っている。

 

 特にSNSのようなオープンな場では、こうした意識に欠けた発信が目につく。表現だけ整っていても中身が曖昧な発信、感情や憶測が先走る発信、誰に向けたのかが曖昧な発信。せっかくモチベーションをもって発信したのに、人に害を及ぼしたり、意味が伝わらずに終わってしまうのはもったいない。

 

 当然、筆者もまた「事実と想像を分ける」、「他人の役に立つ形で伝える」という原則を忘れずに、「集合知」の一部としての責任を果たす発信を続けていきたい。