「わかってる側の理論」が人を壊すとき

 転職活動の二次面接で、現場のエンジニアリーダーと話す機会があった。その中で強く感じたのは、優秀な人ほど「答えがわかっている側の論理」で語る傾向があるということだ。

 

 もちろん、それが悪いわけではない。むしろ職場においては正論であり、能力さえあればだが、再現性のある有効なアプローチだ。だが、実際にそれができなくて困っている人にとっては、「こうすればいいのに」という言葉は、ただの突き放しに聞こえることがある。できないから困っているのであって、理屈をぶつけられても、前に進めず心が折れるだけのことも多い。

 

 これは、筆者自身も日常でついやってしまうことだ。特に家族や身近な人に対して、「損をしてほしくない」、「間違ってほしくない」と思うあまり、「こうすればいいじゃん」と言ってしまう。でも、それはやはり「わかっている側の理屈」なのだ。できない側からすれば、「それができれば苦労はしない」と感じてしまう。

 

 日常生活は会社と違って「いつまでに成果を出さなければいけない」という締め切りはない。だからこそ、もっと気長に、ゆるく構えてもいいのかもしれない。ときには、「干渉せず、ただ隣にいる」というスタンスの方が有効なこともある。

 

 ただし、完全に放っておくべきではない場面もある。詐欺的な契約で金銭を失うとか、生活習慣が壊れて健康を害するなど、無視できない実害が出そうなときは、たとえ相手に嫌われたとしても介入すべきだと思う。 

 

 今回の面接で得た気づきは、スキルや知識ではなく、人間関係における「構え方」だった。「答えがわかっている側の論理」は、相手を救うこともあれば壊すこともある。そして一方で、「放っておく優しさ」は、ときに「見捨てるという暴力」にもなり得る。

 

 自分と相手、そしてそこにある問題との関わり方を、もう少し丁寧に、柔軟に選び取っていきたい。