正しく真似る人は強い。でも、考える人しか勝てない。

 格闘ゲーム界のレジェンド・ウメハラ氏が、「『ストリートファイター6』でなぜ自分はTOP層に入れないのか」という相談に対して、印象的な回答をしていた。

 

 要約するとこうだ。相談者は、上位プレイヤーの動きを模倣する能力には長けているが、それはあくまで模倣にすぎない。上位プレイヤーの中でもさらに強いプレイヤーが集っているTOP層とは、自分自身の頭でゲームを深く理解し、独自の戦術を編み出す「創造者」たちのことであって、模倣だけではその領域に到達できないという。

 

 さらにウメハラ氏は、模倣者と創造者の違いを「処理能力」と「思考能力」の対比で説明していた。処理能力が高い人は、与えられたお題に対して最短で答えを出すことができる。しかし、そのお題自体を疑ったり、背景に目を向けることはない。一方で、思考能力の高い人は、お題そのものを解体し、材料を吟味し、より本質的な理解をしようとする。結果、アウトプットまでの時間はかかるが、応用力があり、新しい解法を創出することができる。

 

 この違いを『ストリートファイター6』で考えてみる。模倣者は世の中に出回っている「最適解」しか扱えないため、新しい戦術を開発した創造者に対しては無力となる。その新戦術が世間に広まり、他の創造者によってその対策が創られるまでの間、自分が学習していない戦術には対応できない模倣者は負け続ける。よって、模倣者がTOP層に立つことは不可能だということだろう。

 

 実際、この構造は、ゲームの話にとどまらない。文芸評論家の浜崎洋介氏もまたウメハラ氏と同じ構造を指摘し、養老孟司の『バカの壁』を引用しながら、「日本では処理能力だけが評価されている」と憂いている。政治家や官僚など、社会の中枢を担うはずの人々が、与えられたルールや手順に則って処理することに長けていても、そのルールや手順の妥当性を考える力を欠いている。だからこそ「間違った制度」を作り、それを延々と動かし続けてしまうのだ。

 

 筆者自身、就職活動や人付き合いを通して、「なんでそうなってるの?」「そもそもその前提って正しいの?」と問い直す姿勢が歓迎されない空気を感じてきた。当初はこれは山本七平の『空気の研究』で語られていたように、「相対化する者が嫌われる」という現象のことか、くらいにしか思っていなかった。しかし今は、「多くの人は処理能力を磨くのに忙しく、思考能力を育てるモチベーションがない。なので、それを発揮しっても受け止めてもらえる土壌がない。」という根本的な問題に気づきつつある。

 

 考えてみれば、義務教育から企業社会に至るまで、大量のインプットと高速アウトプットが日常化している現代では、思考能力を使って考える「余白」なんてない。結果、模倣と処理だけが磨かれ、創造と疑問が育たないのだと思った。

 

 しかし、だからこそ、「自分の言葉で考える」ことを、あえてやる意義があると思っている。自分の問いを持ち、自分の頭で考え、自分の方法を試す。その積み重ねこそが、模倣の海を越え、創造の領域に近づく一歩なのだと思う。そう考えれば「ほとんど人に読まれていないこのブログ」も続ける価値があると思えた。

参考 

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ja.wikipedia.org

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