「守りたい」と「信じて任せたい」の間で揺れる愛情

 妻との関係で、すれ違いが起きた。お互いに相手を大事に思っているはずなのに、その感情が噛み合っていなかった。原因はズバリ、「愛情の定義」の違いだったように思う。

 

 筆者の愛情の根っこには、「妻を現実的な脅威から守りたい」という考えがある。たとえば、お金の管理、時間の使い方、食生活、睡眠、運動習慣、人間関係。本人が見落としているリスクに気づき、指摘し、必要があればブレーキをかける。

 

 実際に放っておけば、家計簿は付けないし、食事は「適当」にするし、夜更かしで睡眠時間は削るし、スポーツジム通いも何かと理由を付けてキャンセルするし、「嫌われたくない」一心ですぐに他人のご機嫌取りに走って消耗する。

 

 要は「口うるさい親」みたいなことをしていたのである。でも、それは愛があるからこそ。「妻がどうなっても構わない」と思えば放っておくほうがずっとラク。そうではないからこそ、あえて嫌われ役を買って出ていた。

 

 けれど、妻が求めていたのは「守られること」じゃなかった。もっと感情に寄り添ってほしい、安心感を分かち合いたい、対等な関係の中で信頼を築きたかったようだ。そしてそのズレが、心の距離や身体的な関係にまで影響していた。

 

 言われてみれば当然の話だ。「守る愛」は、相手を「下」に置く構造になりがちで、「信じて任せる愛」とは矛盾する。どんなに心配していても、どんなに相手を想っていても、伝わらなければ意味がないのである。

 

 これからは「守る」から「並走する」愛にシフトしていこうと思うが、現時点では心配になる要素の方が多い。現時点の妻を「信頼して見守る」みたいなキレイゴトで見ていると、ほとんど確実に「問題」が起きる。これは「雪道にチェーンを巻いてない車で出かけるのを笑顔で見送るようなもの」だと思う。

 

 とはいえ、「守る愛」と「対等な愛」の存在を意識することはできたので、今後はその割合を「ちょうどいいところ」まで調整していきたい。

spreadthec0ntents.com