最近、筆者の身近な人が経済的に困窮する話が増えている。最近だと、筆者の妹の同居人が事業に失敗して、家賃を下げるための引っ越しをしたが、それでも調子こいて買った犬1匹と猫2匹のコストが重いとか、新社会人の筆者の弟が初期設定がリボ払いのクレジットカードを作ってしまい、さらに仕組みを理解せず、欲しいモノのためにそれを使ったので、ショボい給料からデカい利息を絞られて困った話などを楽しませてもらった。(ちなみにそんな我らが父親は『日経ダブルインバース』に全財産フルベット勢なのでオールウェイズ面白い。。どうなっても知らんぞ。)
本人的にはキツイかもしれないが、まだ「軽め」の話で取り返しはつくが、問題はこいつらが「幸せになるための消費」を勘違いしていることだ。
人は「幸せになるため」に生きている。もしそう考えるなら、それに無関係なことへリソースを浪費するべきではないはずだ。もちろん、何が「幸せ」かは人それぞれだし、無限に定義できる。そこでまず、筆者の中の「幸せ」のイメージを共有しておきたい。
筆者にとっての「幸せ」は、以下のような構成の「木」のようなものだ。
- 根:「生物としての生存に不可欠な要素」、これは心身の健康など「生物として性能を発揮する力」。
- 幹:「人間社会で安定して生きるために必要な要素」、たとえば人間関係、スキル、知識、お金など「社会に対応していく力」のこと。
- 枝葉:「生存とは関係ない欲望」、つまりその他すべてだ。
この三つにはそれぞれ異なる「栄養」が必要で、人は幸せになるために限られたリソースを振り分け、それらを育てていく。
しかし当然、全てを同時に完璧に整えることはできない。なので本来は「根→幹→枝葉」の順に優先すべきだが、多くの人は「まず枝葉から」整えようとする。社会で取引されている財やサービスを見れば、その偏りは一目瞭然だ。「フェラーリ貧乏」や「推し活破産」のように、枝葉のために幹や根を削ってしまう事例は珍しくない。本来、枝葉は失っても他で代用できるし、そういうモノを「自分にはこれしかない」と思うのは危険な錯覚である。
大事なのは、欲しいモノや感情を揺さぶる体験を求める気持ちは理解できるが、それを手に入れて幸せになるには順序があるってこと。まず心身の健康が万全で、その上で社会でやっていくためのスキルと資源が十分にあり、さらにその余裕の上で無駄を楽しむ、という流れを守る限り、枝葉を求めることは何の問題もない。むしろ存分に求めていくべきだと思う。
これは「鶏卵前後論争」になるが、上記のような「幸せになるための手順」を無視した当人はもちろん、それを煽る業者にも責任はある。「枝葉にすぎない幸せ」を餌に、「根っこと幹という土台」を削らせる商売の販売戦略は苛烈で、時に脅迫や洗脳にも近い。そうした手法に飲み込まれ、判断を狂わされる人を見ると、本人だけを責める気にはなれない。
もし、「何らかの規制」ができて、あらゆる取引の場で、買う側が「根っこと幹を整えた上での余剰分」しか使えないようになったら、買う側は安心だし、売る側も、売り上げのためのイケニエを選ぶため「死のマーケティング」をしなくて済む。というか、「枝葉」の部分を満たす市場に対する需要が強制的に減らされるので、そんなものを売ろうとする業者もがっつり減りそう。
まぁそんな「規制」は「売り上げが正義」の資本主義環境ではできるわけがないので、相変わらず売る側は必死で売り、買う側は土台を犠牲にして必死に買う。そしてその末路は、「ゴミしか作れない人」と「ゴミに埋もれた不幸なジャンキー」が蔓延る世界だと思うと、背筋が寒くなる。