社会が温存する「お気持ち消費」とのつきあい方

 正直、筆者は長いこと「お気持ち消費」が理解できなかった。ギャンブルやホストクラブ、コンセプトカフェといった店を見ても、「なぜこんなものにお金を払うのか」と呆れるばかりだった。買う方も売る方も不思議で仕方がなかったし、流行りの業界ゆえか、そこで悲惨な事件が起きることも多く、その存在に怒りすら感じていた。ところが最近、視点を個人から社会全体に移してみたとき、その存在理由が腑に落ちた。

 

 社会は個人を「生かさず殺さず」の状態で維持する必要がある。例えば、「誰しもがお金を貯めて金利で暮らす」とか、「好きなことだけやって生きていく」とかを目指したら、誰が「きつくて危険で大変だけど社会にとって重要な仕事」なんてやるだろうか?そうなってはマズいので、個人には「納得感をもって自由を手放してもらう必要」がある。だからこそ、人からお金を失わせて労働市場に留める仕組みは温存される。

 

 もちろん、「サラ金」のように人を壊すレベルにまでいけば規制のメスが入る。社会は個人を壊したいわけじゃないからだ。しかし、そうでなければ基本的には「野放し」にしておく。それが社会を回す上で都合がいいからだ。

 

 「お気持ち消費」は、「個人が納得感をもって自由を手放す」ということにおいては最も効率的だと思う。まず、「承認欲求」や「自己責任論」と親和性が高い。人は「自分で選んだ」と納得しながらお金を差し出せるし、その結果も受け入れやすい。次に、物理的なコストを伴わないことである。売っているのは物理的な商品ではなく、あくまで「良い気分にさせること」。モノであれば在庫や生産コストが限界を作るが、お気持ちにはそうした制約がない。なので、供給側も商品を無限に提供できるし、「お気持ち」は常に変化するので需要側も無限に求めてくる。

 

 こういう「お気持ち消費」を繰り返した結果として、個人は客観的には何も得ることなくお金を失い、再び働かざるを得ない立場に戻っていく。これは一見自由に見えて、実は構造的に不自由を強いられている状態といえるだろう。

 

 では、個人としてどう向き合えばいいのか。考え付くのは「お気持ち消費」と「生存消費」を分けて考える習慣を持つことだ。「お気持ち消費」そのものは悪ではない。むしろ人生を豊かにする場面もあるだろう。ただ、それが「依存的な支出」になっていないかは常に振り返る必要がある。一方で、食・住・健康といった物理的に限界のある領域に軸足を置けば、支出のバランスは安定しやすい。

 

 社会が人を生かさず殺さずで回っているのだと理解すれば、この「美しい集金システム」にいちいち怒る必要はない。むしろ、その仕組みを見抜けたなら「自分の自由をどうやって守るか」を考えることができる。引き続き、気を引き締めていこう。