「論理」とは、例えば1+1=2のように、他者にも説明できる仕組みのこと。ただし、それはでっち上げではなく、「なんで?」を何度もぶつけて確からしさを磨く必要がある。一方で「感情」はその真逆で、他者の理解を求めない。自分がそう感じたからそうなのだ。それ以上でも以下でもない。
思考や行動の根拠としては、客観的に説明できる「論理」のほうが正しく見える。だから「論理的であることが善」と思いがちだが、そうとも限らない。「感情」を置き去りにすると、「正しいけど辛い」状態になりがちだからだ。
筆者は30歳を過ぎて、ようやく「論理」の上に「感情」を載せることに慣れてきた。まず「正しさ」で足場を固め、その上で「楽しむ」のである。これは例えば、「遊興費のために借金しない」という、当たり前のことを徹底することだ。20代のころはそれが全然できなかった。勢いで動き、すかんぴんのまま子どもを作ろうとしていたくらいだ。
「正しさ」に基づく行動は、プライスレスな「感情」の価値を計算に入れられないため、どうしても利益や損失で判断されがちになる。ここが「コスパ重視」と評される所以だと思っている。さらに、「論理」に基づく結論は多くの人が同じように行動するので、「論理派」は似たような選択をする。
こうして筆者は「コスパ重視の量産型ロボット」として、客観的には地味な日々を送っている。だが、その積み重ねが確実に理想の未来を形づくっていると信じている。今に見ておれ。。