混ぜるな危険

 これまで「論理と感情を同時に扱うと、計算として成立しない」という話を書いてきた。これは筆者の感覚的には、「xとyを足し算しようとしているようなもの」で、本来は同じ式に入れてはいけないものを無理やり同列にしている状態だと思っている。

 

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 ところが現実の世の中では「お金(論理)で気分(感情)を買う」行動が普通に行われている。寂しいからお金を払う、かわいそうだから助ける、身内だから支える、罪悪感があるから肩代わりするなど、どれも何となく妥当に見える。しかし、これは「できることを増やすための投資」としてではなく「気分を良くするために消えモノを買っているだけ」なので、自分のリソースは赤字になる一方だ。

 

 実際、父親は「人を信じるのは良いこと」、「身内は助けるべき」という価値観で動いた結果、共同経営者に店を取られ、妹にはギャンブルの損失補填で数十万円を貸して回収できなかった。感情で金を動かした結果、生活も精神も疲弊した。本人は自暴自棄になり、母はキレ狂い、当事者たちは父親の前から消えていった。現実は『走れメロス』のようにはいかないのである。むしろ、そういう美談はほとんど起こらないからこそ物語になるのだと思う。

 

 妻の両親も似ている。感情を優先し、健康や財務を無視するため、年齢とともに破綻リスクが増えている。ブラックフライデーで必要のない物を「安いから」で爆買いする姿を見ると、理想的な消費者だと感じる。もちろん「自立した大人の価値観」に基づいた行動なので文句は言わないが、いざという時は「自立した大人」として責任を取ってもらうつもりである。

 

 逆に、妻との関係は「自立した二人が同居している」形で成立している。財布は別、借金は共有しない、価値観に過剰に踏み込まない。感情は感情で交流し、論理は論理で処理する。混ぜないからこそ、関係は穏やかに保てている。

 

 結局、感情と論理は同じ通貨ではないのである。感情は感情で扱い、論理は論理で扱うべきだ。ここを横断した瞬間に、人は簡単に赤字になる。

 

 自分なりによく考えなきゃいけないのは、お金を払う対象がなんであれ、それが投資なのか浪費なのかを区別することだ。お金を払った結果「できること」が増えるなら投資になる。外食や旅行も意味づけ次第で資産になるが、ただ気分を満たすだけなら消えて終わる。そしてそれが投資であれば必然的に、お金(論理)と価値(論理)のやり取りになるはずである。

 

 感情と論理を混ぜない、それだけで人生で「しなくてもいい無駄な損失」はずいぶん減らせると思う。