4冊目。
『デスノート』が流行ったときに、誰かに教わってドストエフスキーの『罪と罰』の存在も知ったが、作品を読むまではしなかった。しかし、改めて読んでみると、やっている行為や動機については似てる部分もあるが、作品のメッセージとしてはだいぶ違う感じがした。
実際、多くの人は心の奥にラスコリニコフ的な発想である「状況次第では他者を犠牲にしてもいい」という考えを持っていると思う。しかし、実際それをやったラスコリニコフがそうだったように、通常は罪悪感がそうすることを止めてくれるブレーキになることを我々は知っている。
問題なのは、例えば「愛国」、「非常時」、「正義」といった物語が入ると、そのブレーキが外れること。やったことの動機が「私がやりたくてやった」から「社会や状況が求めたから」にすり替わる。結果、相手を消費する行為を罪悪感なしでできるようになる。
そんでもってこういうことは、「職場」、「家族」、「コミュニティ」など、誰もが所属する小さな集団でも起こりうる。自分とは別の「抽象的なモノ」が要請すれば自分が罪悪感を引き受けずに済むようになるのが人間なんだろう。
だから重要なのは「罪悪感を感じる個人として考えること」な気がする。特にキナ臭い現代には。「さみしいネット右翼」の親父に勧めてみるか、いや、意味ないか。。