汎用資産は基盤、個人の記憶こそが差異

 毎年恒例の「高額福袋開封動画」をyoutubeで見漁って、その流れで、そもそも高額なモノの開封動画も眺めている。これまで筆者が書いてきた文章を眺めれば、筆者はこういう動画を「憧れのまなざし」で見ることはない。むしろ逆である。

 

 筆者は、「ドライブレコーダー越しの交通事故動画」や「警察官のボディカメラ動画」も趣味で見ているが、これを見ている時の感覚に近い。つまり、筆者にとっては大切なリソースをいとも簡単に投げ捨てている人もいることに奮えているのである。そこには恐怖と同時に興奮もある。

 

 まぁそれはそれとして。

 

 筆者が大切にしているリソース(お金、時間、健康、人間関係、社会的承認)は、生きていくうえで誰にとっても重要な資産であり、基本的には誰でも同じように積み上げることができる。そういう意味で、それらは「汎用資産」に過ぎず、一定量を超えた瞬間、同じ水準を持つ人間との差異は消える。それどころか、より多く持つ人の前では相対的にはその価値すら下がる。

 

 こう考えると、恐ろしいのは、人生がその汎用資産の積み上げだけで終わってしまうことだと気づいた。お金を持っている、健康である、時間に余裕がある。それ自体は立派だが、それだけでは「~を持っている人」という説明可能な存在にしかならない。

 

 だから大事なのはリソースを積み増すことだけじゃなくて、「汎用資産」を生活の基盤としつつ、それとは別に「個人の記憶」を積み重ねて、「なんか面白い人」を目指していくことだと思う。

 

 ここで言う記憶とは、「単なる思い出」ではない。

 

 時間が経つことで意味が変わり、何度も再解釈され、行動や判断の基準として再利用され、他者との関係性にも影響を与えるような記憶である。

 

 例えば筆者が十年以上続けている格闘技は、成功と失敗の両方が刻まれ、語るたびにハイライトが更新されていく。旅行やスポーツも同様だろう。こうした体験は、その人固有の差異として蓄積されていく。

 

 一方で、他人のコンテンツをただ消費するだけの娯楽は、同じものを見れば誰でも同じ地点に立ててしまう。その体験が思考や行動に変換されない限り、記憶としても差異資産としても機能しない。

 

 新年早々、自分が何を積み、何によって自分を形作りたいのか。その輪郭が、少しはっきりした気がしている。