- 自分以外の人が語る「豊かさ」に違和感がある
- 「豊か」とは「不要なモノがたくさんある状態」ではない
- 「豊か」とは「必要なものがいつでも手に入る状態」である
- 「豊かさ」の正体を見誤る人は「豊か」になれない
自分以外の人が語る「豊かさ」に違和感がある
身近な人の話
たくさんの物に溢れたモノにさらに物を押し込んで、日々その整理に勤しんでいる人がいる。
なんとなく目についた欲しいモノを買ってくるので、その結果、部屋はモノで溢れる。
少しでもモノが詰め込めるように効率的な収納グッズを買う。
ようやく作り出せた隙間に置くモノをさらに買ってくる。
こんな「消せないテトリス」のようなことをやっている人がいる。母親である。
本人としては「好きなモノに囲まれる幸せ」と「いつ何時にどんな必要性が出てきても対応できる」という安心感があるらしい。
誰かが言っている話
「車は買わないといけない」、「家は買った方がいい」、「保険で安心を買わなければ」、「美味しい料理は買うべき」。それらを買えない人は「豊かでない人」である。
世の中の誰かが、こんなことを言っていて、特に自分の考えを持っていない人たちはそれを復唱する。
「モノを買わせたい思惑のある誰かの声」が、「自分の頭で考えない人たち」に増幅されていろんな場所に拡散される。
「豊か」とは「不要なモノがたくさんある状態」ではない
「不要なモノがたくさんある状態」は「豊か」ではない。
必要性が満たされて使わなくなった時点でモノは不要になる。
「2回目はもう着る気がない服」、「読み終わった漫画」、「クリアしたゲーム」など、使う必要を満たしたモノは手元に置いておいても仕方ない。
こういった「不要なモノ」に囲まれている状態は「豊か」とは言えない。
むしろ、片付けや手入れといった、「モノを管理する手間」をかけないといけない分、時間、体力、時にはお金も使ってしまうので、リソース的には貧乏な状態になってしまう。
「豊か」とは「必要なものがいつでも手に入る状態」である
「必要なものがいつでも手に入る状態」は「豊か」である。
モノはそれぞれ必要になるタイミングがある。
なのでモノは必要な時に必要な分だけ手に入れて、不要になったら手放すというのが「モノの正しい取り扱い」である。
「豊か」であることは、つまり「モノの正しい取り扱い」がちゃんとできる状態にあることだと思う。この状態とは以下のことを指している。
- 必要な時に必要なモノを手に入れるための手段を持っていること
- 必要なモノを手元に置けるスペースがあること
- モノの要不要を管理する時間的、精神的な余裕があること
- モノが不要になった場合に手放す手段を持っていること
1は、例えば、モノを買えるだけのお金を持っていたり、物々交換をしてくれる人間関係を持っていたり、「どこで、いくらで売っているか」など、そのモノを手にれるための情報を持っていることを指す。
これができているとモノを手に入れる際に「最適なコスト」で手に入れることができる。
2は、自分の管理が行き届くスペースにモノを加える余裕があるか、と言うことである。例えば、物理的なモノであれば、それを置いておくスペースが必要であるし、サービスであれば自分が管理し切れる性質のものでなければならない。
3は、「今自分が持っているモノが必要であるのか」と言うことを考える余裕があるか、ということである。これができなければ不要になったモノが溜まるばかりである。
4は、不要なモノを溜め込まないための手段をちゃんと把握し、実行できるか、ということである。不要になったモノを手放すためには、あげる、売る、捨てるなどの手段がある。最小のコストでモノを手放す手段を把握できていれば、不要なモノに囲まれることはなくなる。
「豊かさ」の正体を見誤る人は「豊か」になれない
自分を豊かにしてるモノの正体を見極められないと、いつまでも「豊か」になれない。
誰かが言っているからと、自分の頭で考えない人は「豊かさ」の正体を見誤る。
「豊かさ」の正体を見誤れば、無駄に自分の「体力、時間、金」を使ってしまうことになり、「豊かさ」はより遠のいてしまう。