- 「できない・やらない・やる気になれない」は個人の責任とは言えない場合もある
- なので「できない・やらない・やる気になれない」自体は許してはもらえるかもしれない
- ただし「できない・やらない・やる気になれない」による結果は個人が受け入れる必要がある
- このように考えると世の中の形は妥当な気がした
「できない・やらない・やる気になれない」は個人の責任とは言えない場合もある
何かに対して、「できない・やらない・やる気になれない」のは、「個人の悪意」ではなく、個人の資質や、当時のコンディション、周辺的な事情によってそうなっている場合があり、それは個人ではどうしようもないことだったりする。
個人でどうしようもない問題の責任を、個人に追求しても意味がない。
なので「できない・やらない・やる気になれない」自体は許してはもらえるかもしれない
なので、「できない・やらない・やる気になれない」は個人に責任を問われることはなく、それ自体は許してもらえる。場合もある。
というか責任を問うても、どうせ「できない・やらない・やる気になれない」のだから責任を取ることはできないので許す以外はない。
また、個人に責任を問えない場合、他者がやることは自己防衛である。
ただし「できない・やらない・やる気になれない」による結果は個人が受け入れる必要がある
ただし、「できない・やらない・やる気になれない」の結果は、「できなかった・やらなかった・やる気になれなかった個人」が受け入れる必要がある。
例えば、目標の体型があってダイエットをしようとするが、そのための運動や摂生を「できない・やらない・やる気になれない」場合は、そのこと自体を他人から責められないが、たるんだ醜い体で生きていくという結果はできなかった個人が受け入れて生きていく必要がある。
チームにおいては、仕事が「できない・やらない・やる気になれない」個人がいる場合には、そのこと自体の責任を追求するのではなく、おそらくはチームメイトがその個人を排除する方向に動くだろう。「この人仕事できないからチームからは外そっと。」みたいに。
また、食生活に気を使わなかったり、飲酒や喫煙など、「悪い生活習慣」をやめることが「できない・やらない・やる気になれない」人は、苦しい思いをして、最悪死ぬ。
欲しいものを手に入れるための努力が「できない・やらない・やる気になれない」人は、それを手に入れることができない。
このように、「できない・やらない・やる気になれない」こと自体を責められることはないかもしれないが、それによる「嬉しくない結果を受け入れる」や「欲しかった結果を諦める」ということはできなかった個人がやる必要がある。
このように考えると世の中の形は妥当な気がした
であるならば、むしろ「できない・やらない・やる気になれない」時点で責めてくれる他者は、その先の最悪の結果に行き着くことを防いでくれる重要な要素のように思える。