「子供を産まなかったことを一生後悔するかもしれない」という問題がある
子供が欲しい人が、子供を産まなかった場合、そのことを一生後悔して生きることになってしまう。それは不幸なので、望むならやった方がいいという考え方がある。
確かにその通りだと思う。しかし、それは「どれだけ強く子供を望むか」による。
「望めばなんでも手に入る人生」でない限り、欲しいものを諦めるのは自然なこと
特別でない多くの人は、「望めばなんでも手に入る」という状況になり得ない。
望むものを手に入れるには、それ相応のコストを支払うことになるからだ。
たくさんコストを支払える人は、たくさん望むものを手に入れることができる。一方で、支払えるリソースが少ない人は、欲しいものを厳選する必要がある。
欲しいものを厳選する行為は、「欲しいものを手に入れる行為」であると同時に「欲しかったものを諦める行為」でもある。
無限のリソースを持っている「望めばなんでも手に入る人生」を送っている人以外は、必ず直面する自然なことである。
「諦めることが自然な人生」において諦めたことを嘆くのはおかしい
「望めばなんでも手に入る人生」ではなかった人は、日々いろんなものを諦めて生きている。もはや、毎日何かを諦めているせいで、何を諦めたのかわからなくなっていそうなくらいだ。
そんな数限りなく諦めている人が、諦めたことについていちいち嘆くのはおかしい。何を今更諦めることを嘆くのか。これまでもそうだったし、これからもそうなのだ。ずっとずっと諦め続けることになる。「無限のリソース」でも手に入れない限りは。
厳選すれば欲望を叶えることができる
「リソースに限りがある人生」でも厳選すれば欲しいものを手に入れることはできる。
もし、「子供が欲しい」となって、そのことに人生の全てのリソースを捧げることができるのであれば、それは手に入れることができるだろう。
しかし、「子供は欲しいが、そこまでコストを払うつもりはない」という心持ちだと迷いが出る。
「子供も欲しいが、家も欲しい、車だってあった方がいい、他にも欲しいものはたくさんある」など、迷って「欲しいものを厳選していない状態」でいると結局何も手に入れることはできなくなる。
その迷いを解決させられなければ、欲しいものが定まらず、故に、手に入らずの結果になり、そこには後悔だけが残るのだと思う。
9割の「叶わなかった望み」を嘆くのか、1割の「叶えられた望み」を喜ぶのか、人生の見え方はここで変わる
「リソースに限りがある人生」においては、望みが叶わないことの方が多い。
一方で、「リソースに限りがある人生」は、リソースに限りはあるものの、何も手に入らない人生というわけでもないので、望めばどれかは手に入れることができる。
諦めたことをいちいち嘆いていては人生は辛いものに感じるが、一方で、選び抜いたほんの少しの「本当に欲しかったもの」を手に入れることができるチャンスがある人生と考えられれば、人生に希望を見出すことができる。
「子供を産んだ、産まないの後悔」も結局のところ、「それが本当に欲しかったものなのかどうか」の話でしかない。