- 「ADHDは病気ではない」と心療内科で言われた
- ADHDが病気として治療されるのは「まともに社会で活動する障害になる」場合
- ADHDが障害になるような活動の仕方をあらためたほうがいい
- 心を壊して治療してまた心を壊しに元の場所に帰るのは悲惨
- 自分にとっての幸せを自分で探すことが必要
「ADHDは病気ではない」と心療内科で言われた
これは心療内科曰く、「ネットで無料で受けられるADHD検査よりもしっかりしている」らしい。
これを妻が受けてきた。
結果は「ADHDの可能性あり」だった。
この結果について、心療内科は「ADHDは病気ではないので気をつけて欲しい」と言っていた。
ADHDが病気として治療されるのは「まともに社会で活動する障害になる」場合
確かにADHDは、それ自体が何か体に害を及ぼすようなものではない。
言ってみれば「個性」のようなものである。
ただ、本人が望めば心療内科では、ADHDに対して投薬や認知療法にて対応してくれるらしい。
ADHDを「本人の個性」と「治すべき病気」のどちらと捉えるかは、ADHDが本人が所属する社会でまともに活動する上で障害になっているか、だと思う。
ADHDでも問題なく生きていける社会に所属していれば、それを治す必要はない。
一方で、落ち着くことや集中することを要求される職業についている場合は、ADHDがその妨げになる可能性があるので、治す必要があるだろう。
ADHDが障害になるような活動の仕方をあらためたほうがいい
もし本人がADHDであることが分かったなら、それを治すより、それが障害にならない活動の仕方を考えたほうがいいと思う。
職業はたくさんあるし、社会の形も集団によって様々である。
きっと自分にぴったりの場所がある。
心を壊して治療してまた心を壊しに元の場所に帰るのは悲惨
仮にADHDを治療したとして、会社でその症状を抑えながら無理をして働いて、そのことでまた心を壊して病院に通うことは、終わりなき悲惨である。
昨今では、頭に電気を流す治療法もあるらしい。
もちろん、これはこれでうつ病の治療を急がなければならない人にとってはありがたいものだと思う。
一方で、自分に合っていない場所で生きているが故に、心を壊して、頭に電気を流して治して、また自分に合っていない場所に戻っていく様は、『カッコーの巣の上で』や『時計じかけのオレンジ』で主人公たちが必死に抵抗していた「社会に戻すための治療」を連想させてしまう。
出典:
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まぁ「その本人にあった場所や生き方」を提示するのは心療内科の仕事ではないから、心療内科が症状を和らげることしかしないのは当たり前のことだが。
自分にとっての幸せを自分で探すことが必要
幸せに生きていくには、自分を改造することなく、自分を壊すことなく生きていける場所や生き方を、一人一人が探していく必要がある。
「今の会社じゃなきゃダメ」、「今住んでいる地域じゃなきゃダメ」なんてことはありえない。(たしかに、自分を縛りすぎて本当にそこじゃなきゃダメな人もいるけど)
なにが自分にとって本当に幸せなのか、それはどこで実現することができるのか。
答えは一人一人で異なる。
そして、自分にとっての幸せは誰かが持ってきてくれるものではない。
個々人がその答えを探し続けなければならない。
それをサボっていると、「病院での改造手術と社会で自分がオーバーヒートすることが連続する悲惨な人生」になる。