- 「老後のライフプラン」はお金の問題を解決させるだけじゃ足りない
- 若い人に助けてもらえる老人になる必要がある
- なぜ老人を助けようと思わないのか
- 若い人に助けてもらえる老人になるには
- 一方で「自決」という手もある
- 「生き残り」は長期的なテーマ
「老後のライフプラン」はお金の問題を解決させるだけじゃ足りない
「老後2,000万円問題(笑)」が、年老いた後の生活に絶望させ、若者を資産形成にかり立てて久しい昨今だが、老後の生活を安心、安全なものにするには、お金を揃えるだけじゃ全然足りない。
むしろ、老後の生活の問題が「お金だけ」であるなら、こんなに簡単なことはない。生活保護を受ければ済む話である。
お金なんかよりも問題なのは、老人という弱い生き物になった時に社会で自分自身の力で生きていく術を作る、ということだと筆者は考えている。
貯めたお金を騙されずに守る、外部からの暴力から命を守る、世の中の仕組みを理解するための脳みそを鍛える、健康で病気や怪我のない丈夫な身体に鍛えるなど、老人が社会で生きていくには必要なことがたくさんある。
しかし、これらをたった1人の人間で全てを解決させ続けるのは難しい。実際にそれは若者であってもできていない人がほとんどである。身体的に弱い老人ならその難易度は計り知れない。
若い人に助けてもらえる老人になる必要がある
『トミー・エマニュエル』氏だったら、むしろこちらがお金を払ってでも助けさせていただきたいと思っちゃうが、、
「子供や老人など、弱い人は助けましょう」なんてスローガンは、それが達成されていないから声高に、いつまでも叫ばれているのである。
子供ならばその両親や所属する集団が守ってくれる場合がほとんどであるが、老人は子供ほど手厚くは守られない。その老人の能力が未成年の子供以下であったとしても。
なので、老人は自分の問題は自分でなんとかしないといけないのである。しかし、前述の通り、生きていくためのアレコレを1人で全て賄うのは難しい。
そこで、必要なのは若い人に助けてもらうことである。
なぜ老人を助けようと思わないのか
若い人が無条件に老人を助けてくれればいいが、現実は老人の理想通りにはいかない。
かくいう筆者も、特に老人を助けようとは思わない。それはなぜか。
リソースを使って助ける義理がないから
身内で言えば祖父は何かと強権的だったので、面倒臭くて嫌いだった。
近所にいた老人は多少マシだったが、つながりと言うほどやりとりがあったわけでもないので、mob同然であった。
若い筆者にとって、嫌いな老人だったり、つながりの薄い老人などに自分の大事なリソースを使って世話を焼いてやろうなんてことは自然には考えられない。
そんなことをするくらいなら、自分や自分の家族が幸せになるようなことにリソースを使いたいと思うのである。
関わっても得るものがないから
若者にとってお金、時間、体力というリソースは貴重である。
これらをうまいこと使うことで、自分の望むモノやサービスを手に入れて幸せを実現するのが、現代の日本社会の王道の歩き方だと思っている。(意識的にやってる人は少ない印象だけども)
そんな「幸せの素」とも言えるリソースを使う価値が老人にあるんだろうか?
おそらくあらゆる個人にとって、そういう価値がある老人は、少なくとも身内であるなど、ほんの一部の老人だろう。
それ以外の老人を助けないのは、関わってもリソースを失うばかりで、得るものが何もないからだと思う。
関わるコストが高いから
関わり方によるが、老人を助けるには老人以外と比べてコストがかかる。
まずはコミュニケーションのコストが高い。多くの老人は耳は遠いし、頭の回転は鈍い。さらに持っている知識が現代に対応していない場合が多いので、物事を説明するのにたくさんの情報を、鈍くなった頭に対して丁寧に説明し、相手が理解する速度に合わせて順序立てて理解してもらわなければならない。これは疲れるし時間がかかる。
次に身体が弱くて脆いので取り扱いのコストが高い。子供や若者にとってはなんて事のない衝撃でも、弱った老体には致命傷になるかもしれない。コワレモノを扱うように取り扱わないと、「助けるつもりが怪我をさせた」みたいな後味の悪い結果になることもある。
若い人に助けてもらえる老人になるには
老人になると若者のサポートなしには、満足に生きていけない。
しかし、「若者は老人なら誰でも無条件に手厚く助ける」なんてことはあり得ない。
若者のリソースは有限で、それは基本的には若者自身の幸せを実現するために使われるからだ。
とはいえ、そういう現実があっても、いや、あるからこそ「無策で老人になる」という愚かなことはしちゃダメなんだと思う。今から「若者に助けてもらえる老人」になる準備をしておかなきゃいけない。
若者が助けるコストが低い老人になる
まずは病気や怪我に強い健康な身体を作ること。そのために運動と食事と睡眠には特に気をつける。
目安としては少なくとも毎年の健康診断では「オールA」判定を取れている必要がある。やや厳しいが、軽度の異常も見過ごすとそれが大きい問題につながるので捨て置かないようにする。自分で解決が難しいなら医者に相談する。
次に日々絶えず学習と発信を繰り返して脳を鍛えること。その過程で持っている知識を現代社会で使えるものにアップデートする。
老人になれば、身体も脳も若い頃よりも厳しく鍛えないと、現状維持すら難しいと認識して、若いうちから鍛錬の習慣を作っておくしかないだろう。(これは若い人でもほとんどできていないのが現実)
自分の状況をわかりやすく発信する
自分が何に困っていて、どういう助けがあれば問題が解決するのか、と言うことをわかりやすく発信できるようにする。
老人に限らずだが、「自分が何に困っているのかすらもわからない」という状態で問題に苦しんでいる人は多い。こう言う人を助けるには、かなりコストがかかる。問題を聞き出すのに一苦労、その後に問題を解決するのに一苦労で二重の苦労がかかる。
こんなにコストがかかるようでは、誰も助けてはくれない。みんなそんなに暇じゃないのである。
そうならないために、自分が直面している問題と、必要な支援を簡潔に発信できるようにしておきたい。これも訓練が必要だ。
若者を楽しませる「芸」を持つ
助けてもらった老人が、若者がそのために使ってくれたリソースに報いることができれば、若者にも助けたメリットを見出してもらうことができる。
特別な才能はなくても、老人には生きてきた長い時間がある。その時間で「人を楽しませる芸」を身につけておけば、それがない老人よりも確実に大事にしてもらえるだろう。
まぁ物事を上達のために長年続けるってことは、「一種の特別な才能」なのかもしれないけどね。
老人は守ってもらわないとダメな存在であると認識する
最後に大事なのは、「老人は弱くて、若い人にとっては助ける価値に乏しい存在であるという謙虚な姿勢」を持ち続けることだろう。
間違っても、「助けてもらって当たり前」なんて思ってはいけない。
若い人が貴重なリソースを助けてくれることは、「奇跡的なこと」だとして、最大限の感謝をしなければならない。
周りの老人連中が偉そうにしている中で、こうやって謙虚でいれば、きっと優先的に助けてもらえるだろう。
助ける側も感謝されたら嬉しいし。
一方で「自決」という手もある
老人になっても安心、安全に生き続けるには、無策でただ毎日をぼーっと見送っていてはダメである。
将来必要な能力を開発し続ける姿勢は、全世代の人間に等しく必要なのである。「頑張るのは子供と若い時だけ」なんてことはあり得ないのである。
とはいえ、生まれてから死ぬまで生き残る能力を開発し続けるのは、普通にしんどい。でもサボれば悲惨な目に遭う。
生き残りのために一生鍛錬する覚悟も、貧弱な自力だけで厳しい世の中を生きる覚悟もできないなら、「老いによる苦しみ」に耐えられなうなったら「自決する」ってのもアリだとは思う。少なくとも、そうすれば生き続ける苦しみからは解放される。
そして社会も実はそれを求めている節もある。気がする。。
「生き残り」は長期的なテーマ
「生き残り」はずっと考えてしまう切実なテーマ。